山形県史 第1巻第十三章「戦国の争乱」


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天文の乱と最上

伊達領内で、領国制の強制に不満を持つ豪族地頭らの反抗根底とし、いわゆる「天文の乱」がおこった。天文十一年六月。伊達稙宗と長男、晴宗との争いが激化。
近郊諸侯も巻き込んだ奥羽の大乱となる。

伊達稙宗は開戦早々小田島荘の白鳥氏に書状を送り最上義守の援助を要請した。

「書状は一関市田村氏所蔵」
謹上 白鳥殿 という記載有り

「白鳥氏は小田島荘白鳥郷の館主であったが、その出自は諸説あって判然としないしない。おそらく白鳥郷の「村落の主」として成長した国人であったと思われ るが、もう天文の頃には伊達稙宗と懇意の関係にあり、稙宗から「謹上 白鳥殿」と宛書するほど台頭しており、最上の政界に重きをなしており、最上義守の動 向にも大きな影響力を持っていたことがわかるのである。
 天文十一年十月最上義守は養母の兄伊達稙宗を助ける名目で出馬した(留守文書)」




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「川西地域の領国化」

 「最上の領国体制にも脆弱性は残在し、とくに川西地域が危なかった。この地方の武将は一応最上氏の傘下に入っているとはいえ、相当根強い自主性を持って おり、義光にも叛服をくりかえしていた。とくに不気味な存在は白鳥長久だった。小田島荘白鳥郷の国人だった白鳥氏は以前から強大な豪族にのし上がり、永禄・元亀の頃には谷地城主となり、長久にいたるや義光と競い合うほどになった。 天正五年には槇清光を上洛させ信長に名馬を献じたと伝えられる。長久にだし抜かれた義光は心中穏やかならず、直ちに志村九郎兵衛を上洛させ信長に贈物した という。天正九年五月にも長久は伊達の重臣遠藤基信に書状を送り、上洛せんとしていた大崎義隆の置たま通過の便宜を求めている(性山公治家記録)。その態度は独立した大名の観があった。ここに義光は白鳥討伐を断行するにいたったが、宿老氏家守棟の建議により長久の養女を義光の長男義康に娶ることにして一時和解したという。「義光物語」別本にこの時最上方から送られたという書状が残っている。これによると差出人は「出羽守内 氏家尾張」、宛名は「谷地郡司 白鳥十郎殿」とある。そのままは信ぜられないが、対等の和解ではなかったろう。これでは白鳥氏は承服できず、両者の不和は依然つづいた。ついに義光は病と偽り長久を山形城内に招致して謀殺したという。白鳥討伐についての根本資料が無く、谷地落城後は森伯耆が在城したというが、これも判然としない。「最上義 光分限帳」では谷地城に四千石知行の斎藤伊予守がいたが、最上氏末期には斎藤伊予は高だま城主であった。一時的な城番だったのだろう。「義光物語」等でも 谷地衆で義光方に寝返ったものは記されていない。分限帳等をみても谷地衆で最上家家臣団にくみこまれたと思われる者は見出せない。「最上義光分限帳」では 谷地三万二千六百石は蔵入地となっていた。白鳥氏は義光の軍勢によって徹底的に討滅し尽くされたのであろう。」


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