齋藤伯耆守並びに白鳥家関連資料
 
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天正最上軍記

天正最上軍記実録
 
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「谷地町に於ける姓氏」

 堀籠一眞、「谷地町に於ける姓氏」、谷地町教育会、谷地町郷土研究叢書第一輯、昭和11年10月

30ページに「齋藤氏」についての記載あり。
「谷地の齋藤氏は元、白鳥長久の同族と言はれる」
「白鳥家滅亡後、此の一門は最上氏に對する自警上、母方の齋藤名乗ったと見られる・・・」
「・・谷地城落城の際齋藤伯耆、同市郎右衛門の兄弟(實は長久の弟)・・・」
「根際の同氏は伯耆の子孫と言はれ、宗家は累代長右衛門を稱してこの地に栄え・・・」

等の記載あり。

特に注目したいのが、
「尚此の齋藤氏に就いては信據される系圖類も現存して詳述したいが・・・」
と記載されているが、「此の系図」は現在どこにあるのか、はっきりしていない。

他にも、大森家・宇佐美家など、白鳥、齋藤の関係する一族の紹介の記載もある。
 

『幕末水戸藩士の眠る丘』

神永敏子,『幕末水戸藩士の眠る丘』,風濤社,1997年11月

水戸藩家老の山野邊氏は最上義光の四男、義忠を祖とします。
幕末、水戸藩、徳川斉明は外国船の来襲に備えるため、家老の山野邊氏を城主として助川に海防城を築きました。

築城以来28年間は平穏に続いていた海防城ですが、1864年の甲子の乱に巻き込まれて消失、城を死守しようとした家臣も犠牲になりました。

東松山薬師面墓地に犠牲者の墓があります。

『幕末水戸藩士の眠る丘』はその墓碑の調査記録です。

『幕末水戸藩士の眠る丘』によると、その中にある「齋藤六郎左衛門久政」の墓碑に「白鳥十郎蔵人長久」「伯耆守」という文字と、谷地城の略歴が刻まれているそうです。
 

『資料 山辺町の石仏と石碑』

『資料 山辺町の石仏と石碑』
山辺町史料集 第3集 山辺町史編纂委員会
2003年3月

第5節 相模地区 (根際地区) 72頁

十四 白山神社境内

白山神社は大同二年、神主の斎藤家の先祖藤原剛久が加賀白山の神霊を捧持して、山上に庵を建立し白山寺と称して祀ったのが始まりで、山野辺義忠の祈願所として武運長久の柴燈護摩祈祷(さいとうごまきとう)を行ったという。根際村の村社。

小鶴庄川西三十三所第二十三番の霊場である。



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この資料によると、山辺町根際地区の石碑に「斎藤」と刻まれているものがある。他の地区の石碑に斎藤と刻まれているものはないようだ。

西里根際の齋藤家から山野辺義忠に使えた人がいるという伝承から、西里根際齋藤家と山辺根際斎藤家につながりがあるのかと期待したが、この記述から判断するに、残念ながら関係がないようだ。
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2015.4.13